#つくりおき

一人暮らしをする男性の雑な料理たち

カレーの脱構築

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id:kaiteki61 です.この記事はつくりおき Advent Calendar 2016 - Adventar の19日目?の記事です。きのうはにゃんこさんがめんつゆを極めてました.見ましょう.

www.adventar.org

nyanco15.hatenablog.com

それでカレーがつくりおかれてるんですけど,前こんなんやりました.

kaiteki.hateblo.jp

お前マジなに言ってんだって思うんですけど,要約すると「カレーの構造」を理解すれば,バリエーション豊かな美味しいカレーを安定的に作れるのでは,みたいな話です.

つづく問題は当然、「カレーの脱構築 」であるわけですが、これは「脱構築」自体が概念的に定式化されていないため、当面不可能です。

そんで今日は脱構築です.脱構築は構築の存在を前提とするので、カレーの構造を理解して初めて問われる課題です。 つか脱構築ってなんですか???って感じなんですけど,脱構築という概念のカギは「既存の構築から脱却しようとする指向性」にあると考えます*1.あと下のツイートは本件に関する筆者の見解です.

さて,脱構築の実践に必要なのは何でしょうか? 脱構築の基本手法は「文脈の組み換え」です.たとえば「カレーの構造とはどのようなものか?」という問いは,「調理」という一つの文脈の中でカレーを理解しようとする問いを立てています.脱構築として注目すべきは,「調理」とはカレーをめぐる数多ある文脈の一つでしかないということです.すなわち別の文脈のなかでカレーを理解することで脱構築が実践でき,新たなカレー像を目にすることができます.

文脈はなんでもいいのですが,ここでは,料理は多くの人にとって私的な側面が強いということに着目して,「私」という文脈のなかでカレーを理解することにしました.つまり「私にとってカレーとはどのようなものか?」という問いを立てました.以下は私です.

私とカレー

わかる〜〜〜

脱構築の実践

それで以下は脱構築の実践で,カレーがつくりおかれています.

↑なに言ってんだ??????

↑パセリをバーンバーンってやりました.おいしいよ.

↑左上はなんか魚焼きグリルでベキクソにしたピーマンとかです.

↑ニラ玉じゃん?

↑はたして,,,,,

↑他人丼です*2

↑構造主義とかどうでもよくなってきた

↑ひき肉と生姜を熱でバーンってして刻んだアスパラガス,ウスターソースです.

↑中華スープベースで豚ひき肉カレーです,インディアン要素は忘れました.あ,インド風カレーにしたからか.

↑ひき肉とカラフルピーマンをバーンバーンってすると完成します.おいしいね.

↑これ素材は尖ってるけど構造はめっちゃ正統的.おいしいからやってください.

↑海南鶏飯

↑うどん

↑これはハチャメチャにおいしいから絶対やりましょう

↑和風っていうのは醤油ドリブンで味付けてるって話で,中華は中華スープベースみたいな

↑知らん

↑こん時めっちゃ体調悪かったんだけど,長野の薬局の爺さんが薬くれた.*3

↑酢飯とマグロの細切れを包丁でネギトロにしたやつです.場所があって,いいマグロゲットできる.

↑豚丼じゃん?って指摘あったけど現物は現象的にかなりカレーです.


↓あと以下はすみませんです.だいたい25分間でカレーしてることがわかる.

カレーの脱構築

でなんですけど,カレー作ってるときはとにかくカレーに集中してて,すごいスピード感があります.

みたいな感じで,とにかくバーンバーン(?)ってしてるとカレーができてくる.とにかく雑につくっていて,素材はだいたい焦げてるし,スパイスや調味料の分量とか基本的にはかってない.つかスパイスとか書いたけどただのS&Bのふつうのカレー粉です。あと最近はすごい謝ってる.

S&B カレー 缶 84g×2個

S&B カレー 缶 84g×2個

で,なぜ雑なのかというと,それは「はやく(できるだけ)おいしいカレーを食べたいから」にほかならないという気づきがあります。カレーはおいしいので,おいしいカレーを時間をかけてていねいにつくる,みたいなのは筆者にとって基本的に不可能で,概念矛盾です.もともと「カレーの構造とは何か?」と考えたのも,雑につくっておいしくカレーを食べたいという欲求があったからです.

こうした文脈のなかで,カレーの脱構築の実践をとおして筆者のなかに浮かび上がってきたのは,「雑」と「おいしい」というふたつのキーワードでした.すなわち,「私にとってカレーは,おいしいカレーを雑に作っていく日々の生活の過程のなかに現出する」ということが分かってきたっぽいです.

雑な料理のなかでも「(できるだけ)おいしいカレー」という単一目標に向かってカレーを維持しカレーを向上させようとする日々の経験が、カレーをカレーたらしめていると理解されます。それは本ブログの視座に立てば「つくりおき」にほかならず、カレーはつくりおかれることでカレーとして存在すると言い換えられるかもしれません。

脱構築、なんか頭良さそうに見えてかっこいいかなとか思って脱構築とかゆったんですけど、なんかだんだんどうでもよくなってきました。あと上に書いた脱構築の話はウソです。それから「,.」と「、。」が混ざってるのは途中からiPhoneで書いたからです。

突然ですが「わかる」と「わからない」ではどちらが知的な状態なのでしょうか?これは言うまでもなく後者ですね。知性とは「わからないことの自覚」を礎とします。したがって筆者も後者の立場を意識的にとりたいと思います。つまり、カレーはよくわからない。マジわからん。実際いろいろやったけど、あたし、カレーのことなんて、ひとつも分かってなかったんだな、、、、(結論)

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↑一部のカレーはステッカーになっていて貼れます。

※あとね、「あたしの知ってる本当の脱構築」みたいなご教示とか、ほかのなんとか主義とか◯◯学とか、ご教示とかホンマ、ホン〜マ興味ないんで、頼みますね、、、

あしたは id:rikonakagawa さんのラグジュアリーなつくりおきですわよがつくりおかれます。楽しみですね。

*1:つまり「既存の構築から脱却した」という結果に最大の価値を置く考え方ではない

*2:鰯(しらす)と鯵

*3:効かなかった